積読山脈 2024年 年末
2024年年末から2025年始めの読書のスナップショットを書いておきたい気がする
羅列してみて、この出来事は「日記の本番」じゃなくて「20yy を探す」で扱うサイズだというのが判明した
であるならば、「日記の本番」としてどこを切り出すのか、
もしくは、このまま塩漬けしておいて、後々まで残ったものだけを扱うか、
ということで、このまま塩漬けすることを選びました
2023年12月から始まった怒涛の読書期、2024年6月くらいからちょっと停滞してて、それが一気に挽回される様子
以下は、「2024年を探す」の、2024年、一年間の積読山脈を畳み掛ける書き方で書いた一節、一行
2024年、『アリストテレス 生物学の創造』から始まったこの流れは、帰納と演繹、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、論理学と真理と真偽、イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』、観念論と光学と "Enlightenment" 、サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて』、朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』、自由と善と正義、ジョン・ロールズ『正義論』、社会契約論と功利主義、そしてミシェル・フーコーとイマニュエル・カントへと、猛烈な濁流となりました。もう手遅れです。 「ご愁傷さまです。チーン。」
順番は、
2024/08
2024/09
2024/10
という流れ
「2024年を探す」で書いた次の一節は2024年11月中旬のスナップショット(パンチライン)
いま読んでいる、重田園江『公共性と倫理への問い — カントを読むフーコー』(岩波書店『岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性』)には次のようにあります。
「近代性」という特徴を分け持つすべての思考には「個人を単位として、世界あるいは人間社会を見る」という共通の発想があるのではないか
単位として個人にまで社会を一度ばらし、個人同士の繋がりから政治社会を再構成したトマス・ホッブズ。
誰かと対話するのでも相談するのでもなく、ひたすら内省を続けることによって「考える自分」の確実性へと至ろうとするルネ・デカルト。
個人にまで落とし込まれた先に、人が何かを知ることの限界はどこにあるのか、と考えたイマニュエル・カント。
カントはさらにその先を見据えます。
個人にまでばらされてしまった人間は、なぜどのように他者と関わり、あるいは関わらなければならないのだろうか
バラバラにしてしまったものについて、ではそれをどうやってもう一度くっつけるのかが問われるのは必然だ。人が社会に生き、この世界を生きる以上、他者や世界と相互作用せざるをえない
ここでみたび、僕は天啓を受けます。
ジョン・ロールズが『正義論』で、「公正としての正義」を掲げ「無知のベール」を用いてその「原初状態」に、人と人との繋がりの根本原理を見出そうとしたのは、まさにこのことだったのです。
2024年10月、図書館から本を借りるようになったことと『正義論』を読み始めたことが一体
事の発端は、「今しかできないことをする」「一刻も早く経験する」の話
だから10月に、なにがあったのかは重要
スナップショットが「日記の本番」にある
以下は、2024年10月の積読山脈についての断片
「今しかできないことをする」「一刻も早く経験する」という活動*1の話です。
山梨県立図書館に行って図書館利用カードを作った。初めてだったのでちょっと探索してみた。情報端末を使って蔵書検索した。レシートみたいな紙で書籍情報をプリントアウトできる。一般の書棚は日本十進分類表(NDC)区分表に則っていて作者名順に並んでいるので自分で探せる。便利。どうやら一部の本は書庫に収容されてるらしくて、そういう本はサービスカウンターに依頼する仕組み。1ヶ月に2回だけ書庫へ入室することができるらしい。入ってみたい。
ジョン・ロールズ『正義論』改訂版
アイザイア・バーリン『自由論』
H.L.A.ハート『法の概念』第3版
結局、国立国会図書館デジタルコレクションで読むと言っていた『正義論』を借りてきた。デジタルコレクションで読めるのは古い版で、借りてきたのは改訂版。翻訳が結構違ってて、特に「正義の概念( concept )」「善の構想( conceptions )」という重要な、枠組みの理解に関わる語句の翻訳が異なるので、改訂版を借りてきた。
『正義論』をヨタヨタと読んでいる。結局、図書館で借りてきた。
読み始めた直接のきっかけは、朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』を読んだからなんだけど、なぜこの驚異的に分厚いなにが書かれているのか全然わからない本に、こんなに執着しているのかというと、
春先から嵌まっていたイアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』、写経するように読んでいたパート A 「観念の全盛期」の中で一回だけジョン・ロールズが出てくるシーンがあった。
個人は国家に先立って構成されており、国家は個人の必要と彼らが結ぶ契約ということによって、はじめて意味をもち、またその強制力を発揮する
現代の経験主義的哲学は、精神的言説と公共的言説の関係の理論を締め出し放り出したが、個人と国家の関係の理論についてはジョン・ロールズ『正義論』に見られるごとく、いまだにしっかりと保持しているのである
本命を放っておいてアイザイア・バーリン『自由論』「二つの自由概念」を書見台にくくりつけて読んでいた。
これもきっかけは朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』で、ここで扱われるのは「消極的自由」と「積極的自由」っていう自由の話。誰からも放っておいてもらえる自由( freedom from )と、自分のことは自分自身で、という自由( freedom to )。全く異なる二つの自由。
木曜日に図書館から借りてきた斉藤純一『自由』(岩波書店の「思考のフロンティア」シリーズの一冊)は書き出しがバーリンの自由についてなのでこれをパラパラとめくると、ハンナ・アーレント、ジョン・スチュアート・ミル、アマルティア・セン、ミッシェル・フーコーが出てくる。ヘンデルとグレーテルのパンくずみたいに片っ端から付箋を貼っていく。迷子にならないように(あわれ彼らのパンくずは、森の小鳥たちに片っ端から食べられてしまいましたとさ)。
アイザイア・バーリン『自由論』「二つの自由概念」ギリギリ読了した様子です。読了に付箋(パンくず)を添えて。
予定では、この節だけ読んで返そうと思っていたけど、どうしようかな。図書館で本を借りるのが初めてなので*1、始め方*2はわかったけど終わり方がわからない。
ジョン・ロールズ『正義論』、その始めの方に「すべての社会的な諸価値は平等に分配されるべきである」とあります*8。ここでいう社会的な諸価値とは「社会的基本財」と呼ばれます*9。
社会的基本財を大別すると、権利、自由、機会、そして所得および富となる(きわめて重要な基本財として〈自分自身には価値があるという感覚〉があるけれども、論述を単純化するために、この基本財については、かなり後で取り上げる)。
〈自分自身には価値があるという感覚〉、それはそれは大きな希望でもありますが、それはそれは重い重い足枷でもありそうです。
図書館、借りてた7冊のうち、3冊を返却、1冊は延長した。延長したのは『正義論』。これはたぶん買うと思う。そして新たに4冊借りてきた。
ジョン・ロールズ『哲学史講義』上下巻
ジョン・ロールズ『政治哲学史講義』上下巻
重かった。
書庫から出してもらってほとんど中身を見ないで借りてきた『哲学史講義』はほぼ全部イマヌエル・カントについてだった。『政治哲学史講義』は、その前に借りてた重田園江『社会契約論』を読むために借りてきた
本命の『正義論』は、「序文」で、ジョン・ロールズ自身が、この本は膨大なのでココとココを読むとイイ、と紹介している「手引き」のやっと半分くらい来た。延長したけどそれまでに読めるかわからない。たぶん買うな。買うだろうな。
本を読んでいる。図書館で借りてきた本なので、貸出期間がある。貸出期間は2週間*1。いつもはかなりの遅読なんだけど、いまは返却日に追いかけられているみたい。読み方がちょっといつもと違っている。いつもはもうちょっと自分に引き寄せるというか、妄想を膨らませるというか、そういう感じがあるんだけど、いまはひたすら文字列をダーっとなぞっている感じ。なぞっているというか、視線が泳いでいるというか、紙面を泳いでいるというか。
結局のところ、読むべき本は身銭を切るべきだし、本はいくらでもゆっくり読んでいいし、場合によってはいつまでも積んだままでも全然構わないし、早く読みたい今すぐ読みたいってときには手段は選んでいる場合ではない。
「本は自腹で積め」、当家の家訓です
自分で買ったならば、その素敵な本をいつまでも積んだままにしておいても自分の勝手なわけです
重田園江『社会契約論 —— ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』
「はじめに」
第一に、社会契約論は、社会の起源を問う思想だ。ここで「社会」とは、さしあたり人々が集まり、共同で生活する場、というくらいの理解でよい。私たちが暮らすこの社会は、どこから来て、どんなふうに生まれたのか。社会契約論は、それを解き明かそうとする
だが、たとえば実際にあった歴史上の起源を、古文書をたどって発掘するのではない。理屈として、原理として考えたなら、社会というのはこんなふうに生まれたはずだと説明する。それを作り話と考えるなら、まあ一種の作り話だ。でも理屈の上で考えたとき、誰でも少し頭を働かせればたどっていけるやり方で社会の起源を語るというのは、出まかせの作り話にはない効果がある。
第二に、社会契約論は、社会が作られるために、そして維持されるために最低限必要なルールは何かを問う思想でもある。
こうした秩序やルールがどこから来るかを考えるにあたっては、大きく分けて二通りのやり方がある。一つは、秩序やルールは自然に、あるいは人間がわざわざ作らなくてもどこかからやってくるという考え方だ。
もう一つは、秩序やルールを「人工物」とみなす考え方で、社会契約論はこちらの代表だ。
ところがここに困った問題が出てくる。神様や自然や歴史が秩序を与えてくれるなら、ある秩序がただいいかどうかの最終判断に、生身の人間は直接責任を持たなくてもよい。ところが社会契約論は、秩序は人工物だと言う。そうすると、秩序の正しさにも、人間が責任をとらなければいけなくなる。言い換えると、神も自然も歴史の重みも、あるいは他の何の助けも借りないで、人間たちだけで社会を作り、運営していく仕組みを考案しなければならないのだ。そして秩序の正しさについても、私たちの頭で理解し判定できる範囲で、何らかの基準を設けなければならない。
三番目に、社会契約論は、人工物としての社会を誰がどうやって作り、その社会は何によって維持されるのかを問う思想だ。
誰がどうやって作れば、それなりに頑丈ですぐに息絶えてしまわないような、持続性と凝集力がある社会ができるのか。社会契約論はどういう答えを与えるだろうか。それを短いフレーズで表すと「約束だけが社会を作る」というものだ。
まず、社会が作られる以前の状態、つまり「自然状態」が出発点になる。ここには、自由で独立した人たち、つまり共通の社会を持たない人たちがたくさん出てくる。この人たちがお互いに約束を交わす。そうすると彼らは、ばらばらな状態(自然状態)から抜け出て、他の人との持続的な絆の下に置かれるようになる。この約束が社会契約で、それを通じて秩序が生まれる。人が生きる場面は、孤立した自然状態から、他者との継続的な絆が結ばれる社会状態へと移行する。
『正義論』注文した。Amazon ではなくて近所の本屋にした。AirPAY の端末が置いてあった。金曜日に到着する予定。
以下は、2024年11月の積読山脈についての断片
https://gyazo.com/f92a79dc6ff01b8dcf4e479c8181c05a
https://gyazo.com/c0a1e146ea69b640f6824248e7ef80ae
土曜日『正義論』を春光堂に受け取りに行った*4*5。
これで最初、国立国会図書館デジタルコレクションから始まった『正義論』は、図書館の『正義論』、そして自分の『正義論』になった。出世魚みたい。
図書館から借りてきた方の『正義論』に貼ってあるポストイットを、買ってきた方の『正義論』に移植した。スマートフォンや PC の入れ替えみたいだと思った。図書館から借りてきた方の『正義論』は2週間の貸出期間を一回延長したので一ヶ月くらい預かっていたことになる。今週、返却する。
迫りくる返却日に追いかけられるように*6、序文にあるロールズ自身による親切な「飛ばし読みガイド」*7から 1mm も寄り道しないように、読み進めていたけれど、いつもなら真っ先に読む「訳者あとがき」を読んでいなかったことに、さっき気付いた*8。返却日から開放されて、寄り道するだけの心の余裕ができたけど、うっかりしすぎて積読山脈に後戻りしないように気をつけたい。
ということで、現在地についてです。
ジョン・ロールズ『正義論』はロールズ本人の「飛ばし読みガイド」さえもまだ全然途中なんですがこの『正義論』の背景が知りたくなってろくに中身も確認せずに上の4冊を借りてきました。『正義論』とダイレクトに繋がるのは『政治哲学史講義』ですし、春先までどっぷり嵌まっていたイアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の「観念論の全盛期」に出てきたホッブズとかも重要な役回りなので、どう考えてもスイートスポットど真ん中のはずなんですけど、「テクい道をパワフルに通るのが好き」*2なので、こっちよりも『哲学史講義』の方に強烈に引っ張られています。
『哲学史講義』の原題は "Lecture on the History of Moral Philosophy" で、つまり『道徳哲学史講義』というほうが正確な名称です。中身はほぼイマヌエル・カントの話だったりします*3。ロールズ全体を博物学的に概観するのではなくて、ロールズ自身の問題意識(『正義論』)を捉えるためのものだったので、対象となる哲学者と参照するテキスト(書籍)をピンポイントに狭く深く指し示しています*4。巻末の「講義概要」ではカントの他に、ヒューム、ライプニッツ、そしてヘーゲルを上げています。 なんて感じに、おぼろげながらいま自分のいる場所がだんだんわかってきていて、ここは「政治」「道徳」「倫理」といった名前で呼ばれる場所のようです。ここには「自由」「正義」(正しさ)「善」(良いこと)「平等」「権利」「権力」「法」といった言葉が立ち並んでいます。そして僕にとってはなんとなく埃にまみれた言葉である「民主主義」「自由主義」「市場主義」(自由経済)なんてものがのしかかってきます。背景には「世俗化」なんてものも控えていて「宗教」「科学」そして当然のように「歴史」なんてものも腕組みしてその周囲に構えている感じです。
ジョン・ロールズの『正義論』からカントを介してミシェル・フーコーに接続した。イマヌエル・カントのこと全然知らないんだけど。
ロールズの『道徳哲学史講義』(みすず書房の『哲学史講義』)がほとんどカントについてだったのと、『正義論』の中でも注釈に何回もカントが出てきたので、カントが重要だということはわかった。
重田園江サン*3の『社会契約論』を『正義論』のガイドブックにしようとしていて*4、その重田サンが岩波講座の政治哲学5で「カントを読むフーコー」というテーマで書いていた*5。そこからフーコーが亡くなってから出版された、フーコーが一番最初に書いた論稿である『カントの人間学』に繋がったというわけ。フーコー、書いてる本の題名、テーマがあっちこっちに飛びまくっているんだけど、その基底にはカントがあった、みたいな話らしい
以下は、2024年12月の積読山脈についての断片
ベストが終わったので、あわてて図書館から借りっ放しの本を読んでいる。返却しなきゃいけないから。岩波書店『岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性』
ティム・インゴルドはハイデガーを参照していて、そこを通してカントを透かしみているように見える。
世間一般に言われているような、入門書とかに書かれているような、そういう主流本流に沿った読み方じゃなくて、誰かの眼を通して(透して)その人を読むというう読み方は、ある意味で「読まずに読む」読み方な気がする。ありかもしれない。
ティム・インゴルドを透してハイデガーの肩越しにカントを、そしてロールズを透かしてカントを、さらにフーコーの向こう側にカントを読む。
前のヤツは重田園江サンがカントを読んでいるフーコーについて書いていて、今度のヤツはフーコーがカントの『人間学』をフランス語に翻訳したものの解題として書いている。
フーコーは、ハイデガーを参照しつつそこから解脱しようとしているらしい。『カントの人間学』の鏡像をなしているのがマルティン・ハイデガー『カントと形而上学の問題』だと訳注に書いてあった。
訳注、あとがき、って本題よりもパンチラインに遭遇することが多い印象があって、この本の場合「フーコーがカントの『人間学』をフランス語に翻訳したものの解題として書いている」本を翻訳した王寺賢太サンを読んでいるみたいになる。入れ子構造となっている。多層的。
延長していた図書館で借りてた本の返却日でした。15日間の貸し出し期間を1回延長したので30日間フルで借りてた。
ミシェル・フーコー『カントの人間学』
これも写経のようにして読んだ。今回は最初にガーっと読みながら、ここがパンチラインだ、と思うところにバンバン、ポストイットを貼っていって、あとからその辺りを拾い読みしながら写経した。
残念ながら時間が足りなくて最後の2章が手つかずだった。泣く泣くポストイットを剥がして返却してきた。リベンジマッチは図書館じゃなくて、購入してからにしようと誓った。
カントとフーコー、見つけたからには掘るんだろうな。
ということでジョン・ロールズ『正義論』に戻ろうと思ったんだけど、とにかく本が分厚すぎてもと居た場所がわからないのと、そもそも最後にページを開いたのがベストを書く前だったから1ヶ月くらいたってしまっていてリカバリー出来ず、リスタートに失敗。
第二部 第四章 40節 「<公正としての正義>に関するカント的解釈」っていう、「カント」の文字列が載っている節があるから、このあたりから再開しようと思っている*1。
本章の議論の大半を費やして平等な自由の原理の内容とそれが規定する諸権利の優先権の意味について考察してきた。この最終節の段階で、〈公正としての正義〉の構想をカント的に解釈することが可能であり、平等な自由の原理もその解釈として導き出されると指摘しておくのが適切だろう。この解釈はカントの自律の観念を基礎としている。
いきなり最初の見開きページの左端に長々と*2、カントの『三批判書』についての注釈が載っていて、こっちを煽ってくる*3
その節のページをいくら眺めても文字が上滑りして一向に進まない。ずっとスリップしているので第四章、一番最初の前文のところまで巻き戻すことにした。
第四章の題名は「平等な自由」。自由についての章の一番最後にカントを呼び出すということはカントの思想と自由が関係あるってことだよな
まったくなにも考えていないのにこんなことをつぶやいていて、まさにその通りで、たぶん『三批判書』*1のどれかは「自由」についてなのだと思う。「自由」は、 "free" と "liberty" という単語に当てられる言葉で、文章を読んでわかった気になっているけどたぶんちゃんと理解できていないよね。ここではたぶん "liberty" を指している。
『実践理性批判』がそれ
新たに積読山脈に積まれた3冊(図書館ではなく、買った本)。
ハンス・ライス『カントの政治思想』 樽井正義 訳
ミシェル・フーコー『カントの人間学』 王寺賢太 訳
岩波書店『岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性』
『カントの人間学』 『岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性』の2冊は図書館で借りて良かったから結局、買った。『カントの政治思想』はジョン・ロールズ『正義論』の注釈に載っていたから
この間で、ハンナ・アーレントが『判断力批判』について書いていることを知ったらしいんだけど、キッカケがわからない
https://gyazo.com/2decf6486df034b995a824ceb67493d3
土曜日、今年最後ということで図書館へ。
カントの『判断力批判』、カントによって書かれた決定的な三冊*1のうちの一冊。
いま掘っているロールズとフーコーでは「政治哲学」「道徳哲学」という視点で語られているこの本が、
hysysk サンだったり*2*3、ちょっと場違いに接近してる /lookdev 方面だったり*4、そこでは「美学」という視点で捉えられていて、うーん、これはいったいどういうことだ? 図書館使うようになって本の読み方、かなり変わった。
新刊とかベストセラーはすぐに入ってくるわけではないし、
どうしてもいますぐに読みたい、というときには、あっという間に空から降ってくる Kindle のスピード感には絶対にかなわないけど、
たとえば今回は、「カント」「判断力批判」で蔵書検索して、書棚や書庫から何冊か引っ張って来て、目次や索引から見当をつけて、注釈や参考文献からさらにリンクをたどって蔵書検索して*1、それを飽きるまで何回も繰り返してから、最後に持って帰る本を何冊か選ぶ、っていう感じ*2。
通読するんじゃなくて、「目次」「はじめに」「おわりに」「訳者解説」「注釈」「参考文献」「索引」を一生懸命読む、みたいな。
これをいったい「読書」と言っても良いのか、それはよくわからないけれど。
以前は、なにかについて知るためには、まず入門書を何冊か買って読んで理解を積み上げて、それからやっと狙っているところへみたいな、外堀を埋めることから始めるのがスタンダードとか思っていたけど、
いまはもっとストレートに、わかろうがわからなかろうがそんなことは知ったことか、一気に核心に切り込むんだオレは、みたいなやり方になっている。
ある意味でインターネット的になりつつあるのかもしれない。
ジョン・ロールズから見たカント、ミシェル・フーコーから見たカント、ハンナ・アーレントから見たカント、小田部胤久から見たカント
ここまで掘り進めていながら、なんとなくわかったような気になっている単語が、実際には全然わかっていないという。基礎、基本を端折っているのでこういうことが起きる。